トリフィドの日

テーマとして「滅亡」を取り上げた場合、欠かすことの出来ない作家といえば、ジョン・ウィンダムだろう。「海竜目覚める」、「呪われた村」など、多くの傑作を生み出し、滅亡作家、侵略作家と呼ばれたりすることもある。

ここで取り上げる「トリフィドの日」は古典SFの名作として知られているので、既に読んでいるかもしれないが、簡単に紹介しておく。

ある日、地球に降り注いだ流星の光によって、人類の大半が視力を失った。視力を失わずにすんだ主人公達は動き回る食肉植物トリフィドに抵抗しながら、生き抜いていく。

こういう風に書くと、食肉植物の恐怖を描いたパニック小説のように思えるかもしれないが、それは全くの誤解である。この話の主題は人類の優位性が失われた中で、いかにして人類が生き延びていくかということである。トリフィドはあくまで視力を失った人類に対する恐怖の象徴するものとして描かれているに過ぎない。

同じように、人類の危機を扱った古典作品といえば、ウェルズの宇宙戦争がある。しかし、この中で語られていた、人類の未来というのは、たった一人の人間の理想でしかなく、現実性の乏しいものだった。それに対して、この作品では、人々は生き残りをかけて、様々な手段を講じる。もしも、過去の遺産を消費するだけならば、遅かれ早かれ、人類が滅亡するのは間違いない。主人公達が取る手段は、必ずしも、安易な手段ではない。トリフィドだけではなく、他の人間、病原菌などが敵となり、挫折を経験することとなる。また、この作品は1週間、1ヶ月といった短い期間の話ではない。長期にわたる話であり、主人公達はつかの間の非日常を生きているのではなく、日常を生きているのである。

トリフィドも某国によって開発された植物で、利益を得るために人によって栽培されていたものであり、また、終盤で話されるが、実は流星の光というものは衛星の爆発によるものであったらしい。やや、月並みな言い方だが、この話で、本当に脅威となっているのは人間であり、科学の暴走だったと言っていい。この話が第二次世界大戦後、米ソの冷戦時に書かれたものであるということを改めて感じる。

最後、人類はトリフィドに勝ったとは書かれてはいないが、希望を持った終わりを迎える。読み終えると、ウィンダムは恐怖小説としてこの話を描きたかったんではないんじゃないか、と思ってしまう。むしろ、極限状態での人間の理性を信じていたヒューマニストウィンダムという感じがしてくる。

なお、「トリフィド時代」と訳されることもあるが、これは「The Day of the Triffids」の訳し方の違いのためである。